半年前、マチュピチュを一人で独占したというニュースで世界中で話題になった男性がいます。
奈良のボクシングトレーナーとして働いていた片山慈英士(ジェシー)さん27歳。
マチュピチュ観光大使
とにかく笑顔でいること
マチュピチュ観光大使
とにかく笑顔でいること
半年前、マチュピチュを一人で独占したというニュースで世界中で話題になった男性がいます。
奈良のボクシングトレーナーとして働いていた片山慈英士(ジェシー)さん27歳。
自分の夢を見つける為に大学卒業後、子どもたちにボクシングを教えながら世界一周。
しかし、ペルーの世界遺産マチュピチュに着いた時、コロナウィルスの影響で7ヶ月もの間ロックダウンに合います。
街の観光客もゼロ。もちろん日本人もいません。
そんな中、ペルー政府から世界遺産マチュピチュへ前代未聞の独占訪問を許可されます。
そして、マチュピチュの観光大使となりました。
びっくりするのは全てここ一年半の出来事。
そしてどんな人生を送ってきたのでしょうか?
片山慈英士 27歳
彼の夢の原点、それは幼い頃の忘れられない記憶です。
父親との関係が良くなく、母親はいつも暴力を振るわれていていました。
当時、なす術がなかったジェシーさんは『いつか父親をぶっ飛ばしてやる』
『家を守るのは自分しかいない』という想いからでした。
これは全ての子どもたちや自信を持てない人へ届けたいメッセージです。
幼少期は控えめで、自分に自信が持てなかったジェシーさん。
彼が唯一、自信を持てたのがボクシングでした。高校からボクシングを始め、学校にはボクシング部も無かったので、隣の学校の部活に突撃してそこで練習をしていたそうです。
これがのちの彼の人生に生きてくるのです。
関西一部リーグ優勝、全日本大学王座決定戦でも準優勝を果たすなど、輝かしい成績を残しました。
父親を見返してやろうと始めたボクシングでしたが、気がつくとその魅力にはまり、プロになろうかと考えます。
ボクシングしかやってこなかった為、
「自分は本当は何をしたいのか」がわかわからず自分の立ち位置を見失っていたといいます。
世界一周計画スタート
もっと自分の目で世界を見てみようと、世界一周する事を決意しました。
「旅をしたらやりたい事がきっとみつかる」
話した時はお母さんに泣かれて、家にお金も入れなきゃいけないのもわかっていました。
母親には「今にみてて」と強い気持ちで、2017年世界一周の資金を稼ぐ為、オーストラリアにワーキングホリデーに行くことに。
早く仕事を見つけないと野垂れ死ぬという状況でした。
片道切符で飛び込んだ未知の国でジェシーさんは
「ご飯を食べる為にお金を稼ごう」とっさに浮かんだのはボクシングでした。
英語も話せないので、ボクシングジムに直接行き、ボディランゲージでここで働かせてください」と交渉。
なんと、すぐに働かせてもらえることができました。
その後、自分のクラスまでを持たせてもらえる事になり料金やメニューも自分で決めるという経験をします。
その時にはじめて「自分はボクシングを教えるのが好きなんだ」と気付きました。
オーストラリアに住んで一年ほど経った時、1ヶ月くらいニートになった時期がありました。
その時みていたドラマがきっかけで
と思ったそうです。しかし、「ボクシングを辞めるのも違うな。」
そう思っていた時、
「子供たちにボクシングを教えながら世界一周をしよう」と思いついたのです。同時にボクシングジムも周り、
と考えました。
【世界一周の資金がつきる】
25歳の時、出発した世界一周。
しかしワーホリで貯めた資金45万円は途中で尽きてしまいました。
そこでクラウドファンディングで資金を集める事に。
普通の人なら世界一周の途中でも資金が尽きたら諦め、帰国してしまうと思います。
「お金が無いなら別の方法で」とやり方を変えていくジェシーさんはとても柔軟な思考を持つ方だなと思いました。
『やる』と決めたら諦めないところもジェシーさんの人間力の凄さが現れています。
クラファンでは62人の方が支援してくださり、40万円以上集まった為ジェシーさんは旅を続ける事ができました。
SNS全くを力を入れてなかったジェシーさん。支援してくれたのは62人全員が知り合いだったのです。
とジェシーさんは話していました。
小学校に直接訪問し、「子供たちにボクシングを教えさせてくれない?」と言うと快くオッケーしてもらったそうです。(ここでもジェシーさんは飛び込みスタイル!笑)
ジェシーさんは、いくつものアフリカの小学校でボクシングを教えました。
子どもたちは初めて触れるボクシングに目をキラキラさせながら興味をもってくれる様子にこの上ない幸せを感じていました。
その後もアジアやアメリカ、南米を周り、路上にいる貧しい子ども達にもボクシングを教えて周りました。
ボクシングを選んでて良かった事は
しかし触れた事がない人が多かった事でよりどこの国でもより興味をもってくれたと言います。
『自分が本当にやりたい事はこれだ』
その時ジェシーさんは確信したのです。
ボクシングジムに行き、プロと対決したり、日本との違いを感じながら、世界一のジムを作る準備を始めて行きました。
ボクシングの旅が終わりに近づいた頃。世界一周最後の都市、
コロナウィルスの影響で街がロックダウンにあったのです。
観光客はすぐに高額な飛行機で帰国するも、クスコで足止めの様子。
「2週間後にはロックダウンが解除される予定のだから、大人しくマチュピチュにいよう。」
そう思い、観光客でたった一人街に残りました。
しかし、ロックダウンは想像以上に長引いてしまい、結局7ヶ月もの間マチュピチュから出られなくなってしまいました。
絶体絶命!普通はこう思ってしまいますよね。
しかし、ジェシーさんは、『どうせ出られないのだから、ここで出来ることでやろう』
と考え方をすぐに切り替え、ボクシングジムを開く為の資格の勉強を初めました。
そして子供たちにボクシングを教える代わりにご飯をいただくなどして
7ヶ月もの間、大きなお金はかからずに過ごしていたそうです。
「泊まる場所は!?」
長い間どうやってお金をかけずに泊まれたのでしょう?
ジェシーさんはロックダウンにあってから、ホテルに泊まらせてもらえないか、交渉しに行きました。ホテルもコロナで閉まってしまったので観光客はもういられません。
しかし、3軒目のホテルに当たった時、隣の空いているアパートを貸してくれる事になったのです!
ここでもジェシーさんの飛び込み営業力が大いに発揮されました。
【7ヶ月もの間孤独ではなかったの?】
観光客も日本人もいないマチュピチュで7ヶ月もの間一人と考えると、信じられないくらい孤独に感じてしまうと思います。しかし、ジェシーさんは孤独を全く感じられなかったそうです。
理由は
そのスタンスでいれるようになってからなんです。
世界一周に行っている間に今やれることをやり、ロックダウンの時期をチャンスに
それ以上にマチュピチュ村の人々のあたたかさに沢山触れることができました。
孤独を感じなかったのも世界一周の中で身についたコミュニケーション力が活かされた活かされたのだと思います。
子供たちに毎日ボクシングを教える姿をみて、
と注目が集まりました。
村の人々が一度でいいからジェシーさんにマチュピチュを見せたい。との声が政府に伝わり、
閉鎖中の世界遺産マチュピチュを独占訪問をする事に。
これは前代未聞らしく、世界中のマスコミで取り上げられるほどになりました。
その後ジェシーさんはマチュピチュ観光大使に就任。
あっという間にペルー全土で有名人となっていきます。
2020年11月。ようやくマチュピチュから帰国する事ができました。
ジェシーさんの実家は奈良県だったので、様々なボクシングジムが集まる東京に住みたいと思い、少しの間東京に来ていました。「住みたいけど、家賃も高いしどうしようか」と思っていた時、前にマチュピチュの動画作ってくださった方と再会をします。
その時紹介してもらったシェアハウスが現在ジェシーさんが住んでいる、
板橋区のトキワ荘です。
そこは昭和を代表する漫画家、手塚治虫さんや、藤子不二雄さん、赤塚不二夫さんらが若い頃切磋琢磨して夢を追いかけたという伝説のアパートを再現。
なんと住居費が無料。水道や光熱費も無料で住めるシェアハウスなんです。
夢があるのに生活費を稼ぐ事だけに精一杯になっている若者を見て
というオーナーの熱い想いがありました。
「本気の夢を持った人たちが集まるシェハウスに住みたい。」
ジェシーさんは奈良に帰る前にトキワ荘へ行き、自分の想いと夢を語りました。
誰でも入れるわけではなく、将来に向かって本気の夢を持ち、見込みがある人のみが入れる場所なのです。面談を受けた13人中4人が受かり、すぐに奈良から東京板橋区に引っ越し。
トキワ荘での共同生活が始まりました。
トキワ荘のもう一つのメリットは本気で夢を追う仲間と生活できる事。
あとの3人は俳優志望の同世代でした。「同世代から映画出演か決まった!と言われると自分のことのように嬉しく感じる」とジェシーさん。
嬉しい反面、「先にいかれたな!自分ももっと頑張らなきゃ」とすごく刺激になると話していました。
月に一度、今後の計画を数人の社長さんの前で話すプレゼン大会があります。
やる気が見られないと1週間以内に強制退去されてしまうというトキワ荘。
(ここでやる気度を見られるわけですね!笑)ジェシーさんはここに出会えた事にとても感謝していました。
世界中のジムから受けたインスピレーションを元に子どもたちのクラスから始めて行きたいと話していました。
また子どもたちがスポーツと同時に英語に触れる機会を作りたいと、
外国人のトレーナーも雇いグローバルなジムにしていきたいと考えています。教育も混ぜながら教えていけたらきっも親御さんも安心して預けられますね。
ジェシーさんは元々英語が得意ではなく、実際のコミュニケーションだけで英語を話せるようになりました。
学校で使う英語はあまり使えないと言うことを実感し、子どもたちには実際に生きる英語を学んでほしい。
という想いがありました。
ここに通ってた子どもたちが大人になった時に、自分の事を思い出してくれたら嬉しいし、
とジェシーさんは話していました。
そして、大阪を拠点に、世界一のジムの全国展開をしたいと考えています。
ジェシーさんの夢はもう一つありました、お世話になったマチュピチュも盛り上げる事です。
今後の活動についてまた次回の記事に書きたいと思いますので、今日お話しするのはこの辺までにします!笑
[ジェシーさんの経験から今伝えたい事]
外国に出たらどうしても言語の壁を感じてしまうかもしれません、ですがそんな事はありません。
想いを伝えたいという気持ちを持っていれば相手はわかってくれます。
英語を喋れなかったジェシーさんは常にボディーランゲージとパッションだけで数々の問題を乗り越えてきました。それが本当に生きる力なのです。
という事ですね。
これからの時代パソコンとかより人とコミュニュケーション取れる人が勝つ。
とジェシーさんは話してくださいました。
叶えたい夢が持った時、いつの時代にだって反対する人は必ずいます。両親や友達、同僚、しかし、忘れてはいけないのは
誰かのレールに引かれた人生を送りたく無いのなら、とことんやってみる!という事が大切です。
日本人は挑戦する事が中々できない人が多いと思います。
誰もやった事のない事をするにはチャンスなのです。
『いつ死んでも後悔しないように生きろ』一度は聞いたことある言葉かと思います。
ジェシーさんも自分は絶対死なない!そう思っていたそうですが、命の保証はないという事を知りました。
メキシコにいた時、デング熱にかかってしまったのです。1週間動けず寝たきりの状態に。ご飯も水も飲めず、ガリガリになっていました。
すると、コスタリカにいた知り合いのおじさんがジェシーさんの情報をどこかで聞きつけ、自分の家に連れて行ってくれたのです。
すぐさま病院に連れて行きお医者さんに言われたことは
という言葉でした。
自分は絶対に死なない、そう思っていたジェシーさんは初めて死の恐怖を感じました。
「日本にいたら急に死ぬみたいな事は起こりにくいかもしれないが、いつ死ぬかわからない!そのくらいのスタンスで毎日を大切に。挑戦して行って欲しい。」
とジェシーさんは話してくださいました。
片山慈英士(ジェシー)さんを取材して
祖父が南米のトリニダード・トバゴという国出身のクオーターというジェシーさん。
イケイケでヤンチャそうな雰囲気があり、取材する前は「相手にしてもらえるかな」と緊張していました。しかし、会ってみたら「とても腰が低く、記事にしていただけるなんて嬉しいです。」とジェシーさんは笑顔で話してくださり、イメージと全く異なる方でした。
偏見で本当にすみません!笑笑
ハーフと言うと今だからこそ羨ましがられますが、ジェシーさんの幼少期は外国人だと周りの大人にいじめも受けていたそうです。
これまでの人生を聞き、ジェシーさんの人間力は相当なものだと感じました。
これは「多くの人にとって1番必要なスキルだ」と思い、私はメモをとめて話に釘付けになっていました。
【お金がなくてもとりあえずやってみる。コネがなくても直接行って交渉してみる】
失敗なんかする前からわからない。
というジェシーさんのスタイルは多くの人の挑戦する気持ちを引き起こしてくれると思います。
恵まれて育ったわけでもない、今裕福な生活を送っているわけでもない、しかし夢を追い続けるジェシーさんは本当にキラキラ輝いていました。
その時、『こう言う人がきっと世界を変えてくれる』と思い私はこれからもジェシーさんの活動に密着して行きたいと思います。マチュピチュの人々に助けられ、子どもたちのおかげで今の自分があると話すジェシーさん。
今度は自分がペルーに明るいニュースを届けたいとさらなる取り組みもしています。
ジェシーさんはそう語っていました。
たしかに国民の後押しで、政府が世界遺産マチュピチュの入場許可を取れたのも、前代未聞の事。
また、マチュピチュの観光大使なんて日本で眞子さまとジェシーさんの二人しかいないそうです。
コロナ禍の明るいニュースとして世界中から反響があり、ジェシーさんは一躍有名人になりました。
しかし、運だけでは無いと思います。
ジェシーさんの人柄、熱い想いと夢がペルーの国民の心を動かしたのです。
世界一のボクシングジムができたら、きっと日本の子どもたちに挑戦する素晴らしさが伝わると思いました。