俥夫

旅=人生

ガンプ鈴木さんの人生を書きました。

どんな人か知りたい方はまずこちらをお読みください♪

日本縦断中のガンプ鈴木さんを取材して。

①はじまりはおかんの一声

幼い頃はわんぱく少年だった。

小学2年の時、自分でサッカーチームを探し、河川敷のサッカーチームに入った。

おかんがチームを探してくれるなんて甘えは一切なし直接行って飛び込みで練習開始。

最初は年齢でレベル分けされている事に気づかなかったんだよね。笑気づいたら一学年上のチームでプレーをしてて「なんで小2がここにいるの?」とびっくりされたこともある。

サッカーできたらなんでもOK!

「俺はキングカズみたいな選手になる」

それが最初の将来の夢

 今でも現役バリバリでプレーしている 三浦和良は当時のヒーローだった。

 

俺はサッカー選手を目指していた。 いや、今でも諦めてはいない学生の時はとにかくサッカーに明け暮れていた。今思い返せば日常の全てを忘れられたからなのかもしれない。

おかんとの二人暮らしは当時、理想の家庭とは程遠かった。

頭は全然良くなかったが、サッカー推薦で大学に入る。けど、周りのレベルもめちゃ高くていつしか自分のプレーに自信を無くしていた。

大学3年の時「サッカーを辞めたい。」

正直におかんに話してみた。

すると、おかんから返ってきた答えは

予想もしない言葉だった。

「ブラジルに行ったらええやん。」

おかんはなぜブラジルを選んだのだろう。笑

憧れの三浦カズはブラジルでサッカーを始めたこともあり、21歳の時にブラジルへ飛んだ。

これが俺の海外デビュー

ブラジルへの行き方もわからないし、現地に繋がりなんかひとつもなかった。

関西空港を出て気づいたらアメリカに到着。

乗り換えの空港でブラジルに行く日本人の村上さんと言う人に出会った。

俺はブラジルへの乗り換えもよくわかっていなくて、村上さんに「ここでトランジェットするんだよ。」と言われても、「トランジェットって何???」って感じやった。

村上さんは宮城県の人で農業を拡大する事業をしていたが、東日本大震災の津波被害を受け畑が全滅してしまったのだ

そこでブラジルへ行き、農業について学びにいくところだったらしい。 俺がコネもなくブラジルに行く事を話すと、「それは無茶だ。」と村上さん。 ブラジルに住む中川さんという人を紹介してくれた。 その後、俺は現地でその人にだいぶお世話になる。

いよいよブラジルに到着。

全てが初めての世界。

俺は不安よりも何が起こるかわからない知らない世界に ワクワクしていた。

サッカーチームも自分で探したかった為、 ダメ元で日系人のサッカーチームのスポンサーに会い交渉してみた。

飛び込み交渉したのはブラガンチーノという有名なチーム。

普通なら絶対に入れないんやけど 寮の洗濯や掃除、手伝いもなんでもやる!」と話したら練習に出させてもらえる事になった。

やってみないとわからないものだ。

ネイマールにも合わせたもらった。

プロ相手に俺は落ちこぼれになると思ったけど そこでの成績は自分でもびっくりするほどよかった。

順調に最後の試合を迎えようとしていた時。

最悪の事態が。

ブラジルを離れる1週間ほど前に疲労骨折をしてしまった。

サッカーができないほど重傷になっていて、タイミングはほんと最悪。無事最後の試合を終えたが、サッカーを続ける事はできなそうだった。

こうしてブラジルでの生活は終わり 日本に帰国する事になった。

英語もABCDくらいまでしかわからず、ポルトガル語なんてもっとわからなかったが、

そこで感じたのは サッカーの楽しさよりも

人と出会う楽しさや、新しい世界を知ることが楽しかった。

ブラジルから帰る時には

『俺は旅人になる』と決意した。

 


②鶴の恩返し

 

人力車でアメリカ横断の印象が強いから、あまり知られてない過去を話そうと思う。

これは学生の時に作った人生で最大のプロジェクト

当時22

地元京都へ帰ってから、ブラジルに行く途中で出会った村上さんに恩返しをしたいと思った。

村上さんがいた宮城県は津波の被害をもろに受けたところだ村上さんは俺に被災地の厳しい現状を話してくれた。

俺は13年間続けたサッカーを辞め、世界を周る前に東北を元気づける事をしたいと思った。

2011年5月

東北の被災した地域を巡り、被害の深刻さを見た。

宮城県の被災地で地元の人の話を聞き、

みんなが東北に想いを届けられるものは何だろうと考えた。

そこで思いついたのが折り鶴だった。

「日本中から鶴を集めて、折り鶴を作って村上さんのいる地元へ届けよう。」

名案だと思ったが、村上さんに話すと、意外な答えが返ってきた

「それだとありきたりで面白くないな。もっと世界規模にしようじゃないか。」

「鶴のひと声」という団体を作った。

「世界中の人たちにどのように広めよう?」

当時のSNSといえばFacebook一択!動画を作り始めたきっかけもこの時だった。Windowsのムービーメーカーではじめて動画作り、「被災地に鶴を届けたい」と宣伝をした。

クラブイベントに行ってプロジェクトの説明をしたり、大学の文化祭でブースを出させてもらい鶴をおってもらったり、あらゆる手段を使って鶴を集めていった。大学なんて行ってる暇もなかった。

クリスマスに折り鶴を被災地の方にプレゼントしよう!

2012年の1223日から3日間。仮設住宅を一件ずつ回ってプレゼントする事にした。

折り鶴の目標は10万羽 なんとしてでも達成したい。

半年間はサンタの格好をしてストリート折り鶴をやった。

路上で通りがかった人たちにプロジェクトを説明した。

鶴を折ってもらううちに色んな所から人が集まり

「九州で集めてくる」「東京で集めてくる」と次第に全国に折り鶴のチームが出来上がっていった

「東北の人たちに何かしたい。けれど何をしたら良いかわからない」

そういった人達がこのプロジェクトを本気になって協力してくれた。

開始して半年。

折り鶴は全国から送られてくるようになり家の中はいつの間にか鶴で埋まった。

地元の社長がうちの事務所を使いなと言ってくれてビルの一階に折り鶴を置かせてもらえる事になったのだ。気づいたら全国からトラックで折り鶴が届くように。ビルの一階だけでは収まらず、ついに事務所の1階から3階までに鶴を置かせてもらった。

ここまで規模が大きくなるとヨーロッパで旅してる場合じゃなくなってしまった。

2012年の夏にヨーロッパを旅する事を決めていたが、予定を変更し、ヨーロッパでも鶴を集めよう。

2ヶ月間でヨーロッパ、7カ国を周る旅

日本人学校などを訪問して鶴を折ってもらった。

お金無いし、怖いものも何も無かったから、リュックを放置したまま路上で野宿したりしていた。(この頃からずっと野宿笑)

ヨーロッパで出会ったバックパッカー達にも折り紙を渡して、世界中で鶴を折ってもらえる事になった。

「集まった鶴をどんな形で届けようか?千羽鶴では普通すぎる。

考えた末折り鶴アートをしてクリスマスツリーの形で届ける事にした。

京都の材木屋さんに行って「鶴のひと声」の内容を話すと、余った木のパネルを無料で譲ってくれた。

こうして200枚のパネルに鶴のクリスマスツリーをつける事に。鶴いっぱいの事務所にはいつしか

SNSや新聞をみて毎日多くの人が鶴をおりにきた。

子供からおじさんまで全員知らない人たちが事務所に大勢。笑

俺がこのプロジェクトに本気だった理由は

一年が経った今でも東北に目を向けているという想いを届けたかったから。

東北大震災があったことも時間が経てば忘れてしまう。

日本人はもちろん、世界中のたちにも震災があった事を忘れないでほしいと思った。

中には「鶴なんかより支援物資や現金を送った方が良い」との指摘もあった。

けど、俺はお金とかじゃなくて、

被災地で孤独を感じている人達に世界中の人達が一緒に戦っている、

一人じゃない。という想いを届けたかった。

初めて9ヶ月をすぎる頃、当時の目標の10万羽を超えた、

13万羽が集まった。

12月23日プロジェクト当日。

30人ほどの人たちと共にバスを借りて東北の仮設住宅や学校に折り鶴アートを届けに行った。

思い出すだけでワクワクするあの日のこと。

「ハッピークリスマス!」サンタの格好をした30人が一件ずつ訪問をしていく。

中には涙を流して喜んでくれる人もいた。

「よく来てくれた」と東北の人たちとハグを交わした。

俺は鶴なんかどうでも良くて、

これだけの人が東北目を向けているという事をただ伝えたかった。

沢山の人の協力がありプロジェクトは大成功だったと思う。

一方で、ボランティア活動には終わりはない事を感じた。

2013年、東北で追悼式が行われた。

そこで、支援してくれた202カ国の国旗を折り鶴で作り、鶴の展示会をすることに。

202ヵ国もが東北の事を想っていると思うと、きっと東北の人たちも喜んでくれるだろうとおもって作った。

未だに京都の実家で大切に保管してあるからいつか俺がビックになって展示会やる時にはこれを飾ろうかな。

「鶴のひと声」は村上さんのひと声で東北への恩返しへと繋がり、

一年間のプロジェクトはこうして終わった。

 


③人力車is my フェラーリー

人生を変えた人力車との出会い。夢だった世界一周は果たして。

ようやく鶴のひと声プロジェクトがひと段落ここまで大きくなると思わなかったので、1年間先延ばしになっていた世界一周の準備にようやくとりかかれる。

旅にに出たくてうずうずしている俺がいた。

まず世界一周のお金を貯めなければいけない。

「稼げる=東京や!」

こうして今から8年前、23歳の時に初めて東京に出た。

大学は全然行けてなかったが、先生にこびを売りなんとか卒業。

おかんは東京行く事に反対しなかったのかって?

「自分で責任持ってやりな。』と強く背中を押してくれた。

おかんも俺も関西にいたから東京行くってなると寂しくなると思ったけど

おかんの言葉は力強く今でも励まされている。

家族は俺とおかん2人だから、なんかずっと親友みたいな感じだ。

こうして俺は初めての東京に出た。

建物や街並み、人、空気、全てが新鮮だった。だけど問題。東京の家賃は想像以上に高かった。不動産屋に安ければどこでもいい、と言ったら家賃2万のレンタルボックスがあると紹介された。

レッスンボックスって物置古屋ね。笑

俺は寝られるならどこでも良かったからめちゃくちゃありがたかった。

当時の東京での極貧生活はこんな感じ笑

そこから仕事探し。

映像やデザインをずっとやりたかったから映像会社でインターンをしたり、ブライダルやライターなど色々試してみたが、どうもしっくりこなかった。

映像の会社では上司の人と馬が合わず喧嘩になって辞めることになったんだっけ

6月の晴れた日曜日。

たまたま浅草に訪れた時、駅を降りたら目の前に人力車が止まっていた。

人力車を引くお兄さんにこの仕事楽しい?」と聞いたらそのお兄さん、

『人生』って答えたんだ。

これが人力車との出会い。

その言葉が忘れられず家に帰ってすぐに人力車の仕事に応募した。

人力車の仕事を車夫(しゃふ)という

人と話す仕事だし、体力を使う仕事だから俺にぴったりだと思い、すぐに働く事を決めた。

それが今でもお世話になっている会社

「東京力車」

働いて今年で9年目。

なぜ人力車を今も続けるかって

努力した分だけ結果が出るから。自分の成長を実感できるのがすごく楽しくて

人力車=俺みたいな感じだから、仕事っていうかもう生活よね。

人力車って滅多に乗る事ないじゃん?

観光地で営業されるのが嫌な人も居ると思う。でも実際に乗ってみたら

乗って良かったって思ってまたきてくれるお客さんが増えていって

お客さんの気持ちを0から100にできるのが面白い。

「お客さんは何を求めてきているのか」

常に考え徐々に心を掴んでいく。

浅草の名所をご案内するだけでなく、乗ると毎回新しい発見をもらえて

浅草をもっと好きになってもらえたらええなと思ってる。

給料は歩合制だから売り上げを仲間同士で競えて余計に燃える。

売り上げトップになる為にやった事。

それは誰よりも浅草を好きになること

浅草で誰よりもお金を使おうと思った。毎日神社で参拝して、お店を飲み歩いて、知り合い作って

誰よりも詳しくなれば、話せるネタがふえる。

人生はずっとネタ作りだ。

3.4年間はは1ヶ月に30日働いて、1日二回出勤する事もあるほど。

最初から売り上げ一位を取り続けた。

休日でも「この間に誰かが成績を上げている」と思って落ち着いてられなかったね。笑

世界一周の資金集めで始めた人力車だったが

この仕事は売り上げもリピートのお客さんを作るも

全てが自分次第

それが楽しくていつの間にか夢中になっていた。

旅の資金は十分に貯まり、ついに世界一周の出発に行く時が来た。

 


④一夜にして俺ニート

人力車を初めて3年が経った25歳の時

予想もしていない事件が起こる

世界一周には当時、同棲していた彼女と一緒に行く事にしていた。

ところが、旅を楽しみにしていたはずの彼女が突然「私は行かない」と言ったの。

その時はどうしたのか、と思いながらも俺一人で行く準備を始めた。

そして「旅に行くお金を万が一の場合があるから私が預かっとく。」と言われた。

なぜか、とは思ったが、2年間も同棲をし、

結婚を考えていた相手だったので俺も信用してお金を渡した。

全てを信じた俺はアホだった。

お金を渡した後、彼女は元々住んでいた家に戻ると言って、次会うのは彼女の誕生日の日になった。

誕生日の当日。

迎えに行くと、連絡が一切とれず3時間が経っても連絡がない。

ドアをノックしていたら不審者かと通報され警察が来てしまったので家に帰る事にした。

俺は明らかに彼女の様子がおかしいのを感じていた

夕方ようやく彼女から連絡がきた。

「今日は会いたい気分じゃなかったから友達といた」との事。

「連絡も無しに」と普通なら怒るところだけど、この場で何言っても彼女から本音は出ないと思い、

1週間待つから自分との関係をどうしたいのか話してと伝えた。

しかし、1週間経っても連絡がない。

共有の友達に連絡してもキモイ、連絡してくるなと。

その後新しい男ができた事を話され、

預けていた数百万を持っていかれてしまった。

こんなことが起きるのかと。

信頼してた人から裏切られるのはかなりショックだった

その夜彼女と共にお金は消えた。

普通だったら裁判とか起こすのかな?

よくわかんないんだけどさ、

俺は気づいたら人力車の車庫でタイヤを磨いていた。

その時、「俺本当に人力車が好きなんだなー」って。

その晩は人力車の仲間で浅草で飲み明かした

よし、もう一回稼ぐぞー!

俺の中に眠っていた魂に火がついた

体が燃えていた

人生二回目の本気モード

もちろん、ずっとポジティブにいられない時もある。

一文無しになっって世界一周はまた延期だし、、

事件の次の日の朝はお金無くなったのきついなー!って正直おもった!笑

何かを始めるのに年齢を気にする人もいるだろう。

けどさ、俺は100歳まで生きると思ってるから

そう考えたら

「遅れた一年を取り戻す為に101歳まで生きればいいじゃん。」って。

事件があった次の日からまた通常通り働いてそこからの人力車の仕事はすごく絶好調だった。

今思えば、この事件が無かったら俺は普通に世界を周るバックパッカーになっていたし、

人力車を海外に持っていこうとはならなかったから。

今ではサンキュー!って感じよ

 


⑤リキシャーズ結成!世界初!人力車で世界一周

ここがリキシャーズのはじまり。

世界一周もしたかったが

人力車も捨てられない。

そこで俺はそうだ、人力車ごと海外に持っていこう」と考えた。

割り算は苦手なもんで足し算をしてね。

元々普通の旅じゃ面白くないなと思ってたから

人力車での旅を思いついた時、これだ!と思った。

誰もやった事がない旅をしたい

そんなことで、できるかわからないが、

人力車で世界一周をする事に決めた。

人力車で五大陸を周り、

2020年の東京五輪の開会式にゴールをする

日本の良さを世界に発信しながら旅をしようと2020年に向けた5年計画を立てた。

2016

人力車のマネージャーから『クラウドファンディングをやってみたら?』と提案される。

俺は「資金集めができるならなんでもやります!」

と言いい、資金集めスタート。今となっては資金を集める為に多くの若者が使っているが、

当時クラウドファンディングはまだ日本でやっている人がほとんどいなかった。

目標額は200万。まだ世間に浸透していない為、

「誰かの夢にお金を払うなんて変だ」

「怪しい」とよく思わない人も多かった。

なんとか目標学まで達成。

これは一人でやるとえらい大変だから、

クラファンやるなら3組くらいのチームで手分けしてやるのをおすすめするよ。

世界一周をする際、英語が話せるケニー、お笑い芸人を目指すてんすけん

二人の人力車の仲間を誘い、3人で旅をする事にした。

『今日から俺たちはリキシャーズだ』

人力車からリキシャをとって、最後の「ズ」は皆でやりたかったから。

「リキシャーズ」

なんかすごくいい響きじゃないか。

1番の問題は人力車を「どうやって運んでいくか。」

フェリーに乗せて海外に送るのだが、説明が難しい。

税関を通るのに時間とお金がごっついかかる。

フェリーは2万円だが、運送会社なら片道40万かかった。

フェリーで到着するまで大体2週間かかるし、前代未聞の為、税関を通れるのか毎回ヒヤヒヤしていた。運ぶ入れ物も自分たちで作った。

『そこまでして。バカバカしい。』

そう思う人もいるだろう。

けど俺たちは誰もやったことない事をやりたかった。

自分たちの足で世界を周り、日本の良さを世界に発信する。

 

201695日。

俺たちは人力車世界一周の旅に出た。

中国から入り、台湾、香港、ベトナム、カンボジア、タイ、インドなど東南アジアを一年かけて周る

一台の人力車と2台の自転車を使って走った。

いったいこれから何キロ走るのだろう?

考えるだけで果てしない長い道のり。

でもこうやってバカやって毎日笑って走れる仲間がいるから

必ず世界一周できると信じれた。

過去や未来に縛られず

今を全力で生きる

お金では味わえない、

「今」という時間を大切にして

今を楽しもう。

旅の過程こそ価値がある

って誰かがいってたっけ。

NHKの「旅々失礼します」という密着ドキュメンタリーが密着してくれたり

リキシャーズは徐々に知られていくようになった。よくやくカンボジアに入る。

ビザの期限が切れそうな為5日間で400km走らなきゃタイにたどり着けないという緊急事態。

気温40度の中人力車で走るのは自分らの想像を遥かに超えるほど過酷だった

汗の量は尋常じゃなく、てんすけんは熱中症で倒れてしまった。

てんすけんが治療を受け、休憩を挟む。

みんなでゴールしたいところだがビザが切れてしまう為、時間がない。

最後は3人で人力車と共にヒッチハイクをしてゴールへ向かう事にした。

そんな中、自分の足で会うからこその出会いも。

ゴミ山で働く人々に出会ったり、日本語学校を訪ねたり、家に泊めてもらったり。

現地の人々の助けでこの旅は成り立っていた。

その人たちと過ごしたかけがえの無い時間なんかご近所のような感覚だった。

地域の人との忘れられない思い出を作る事が俺らの使命だと思った。

孤児院で地域の人達と交流したり、タイの人たちの優しさに甘えたりしながらミャンマーを抜けてインドへ向かった。

しかし、神様は時に意地悪だ

タイからインドへの移動は 約半年もかかってしまった。

理由は人力車がインドの税関でひっかかり、3ヶ月間も行方不明になっていたのだ。

初めは二週間て届くと言われた人力車。いくら連絡しても対応してはくれず、もうどこかで無くなったのかと思っていた。

メンバーも疲労が溜まり、些細なことから喧嘩が絶えない。

チームでやっていく難しさを強く感じた。

メンバー3人とも自分を貫くタイプで誰かが折れないと話がまとまらない。

今となっては仲の良い3人だか、険悪なムードの時はオフを作ったりして

初心を思い出した。

つづく

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